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「ミツバチが滅びると人類生存期間は4年」とアインシュタインは言う。

この映画を観て、僕はこのことを初めて知りました。

「もしハチが地球上からいなくなると、
人間は4年以上生きられない。
ハチがいなくなると、受粉ができなくなり、
植物がなくなり、最後は人間がいなくなる」
(ただしアインシュタインが本当に言ったのかの真偽は不明)

アメリカではミツバチの失踪をCCD(Colony Collapse Disorder)と呼ばれている。

原因として考えられるのは(
小笠原誠治さんのサイトによると)
農薬、遺伝子操作作物、ストレス、栄養不足、ダニ、細菌、電磁波が怪しい。
だが決定的な理由はまだ見つかっていないそうだ。
なぜなら農薬や遺伝子作物を行なっていない地域にも
ミツバチ失踪は発見されたから。
世界の至るところで起こっているから、だと。

ただミツバチにも種類がある。
今回集団失踪をして話題に取り上げられているのはセイヨウミツバチである。
このハチは蜂蜜を作るのに大変効率のいいハチなので、
世界で大量に輸入され養蜂家に親しまれている。
アメリカでも日本でも。
問題がセイヨウミツバチだけならいいが…

もし集団失踪がすべてのハチに起こったとしたらどうなるのか?
本当に人類の余命は4年になってしまうのか?

ミツバチの問題はムシできない環境問題の一つですよね。
詳しいことをご存知の方はどうかご一報をお願いします。
僕も知り得た情報はできるだけ掲載します。
ハチだけにハシに追いやってはいけませんね。

なぜ男は浮気をするのか?

「男はどうして女を欲しがるの?」

『昔、神様がアダムを創って、その肋骨からイヴを創った時、男の胸がぽっかり空いた。
その空虚を埋めるために女性を求めるのさ』

「なぜ男は複数の女を求めるの?」

『それは死が怖いからさ』

これは映画『月の輝く夜に』の一場面です。
シェールという女優さんと日本でもおなじみのニコラス・ケイジとの恋の物語です。
イタリア人らしい恋愛模様でおもしろいですよ。
是非レンタルして見て下さい。

北野監督から団塊世代へ送るメッセージ。「ジジイたちよ、もっと暴れろ!!」

4人に1人は60歳以上の日本。
超高齢化社会は今後も加速する。
ジイさんバアさんが街中にあふれると
高年齢の人を尊重する気風がなくなるものです。
なぜなら希少価値の逆だから。
ですが老人扱いの年齢になろうと
人間誰しもまだ若い時のままであろうと願う。

「でも今の団塊って元気がないよね!」(人口比率の割に)

北野監督がこの映画を撮ったのは
そんな思いがあったのじゃないかな。

※私はまだ観てませんので、
これは観る前の感想です。

(トレーラー動画)

北野武が語る「ジジイ」と老害
【CINRA.NET 4月22日(水)21時7分配信】

北野武監督の最新作『龍三と七人の子分たち』が、4月25日から全国公開される。その内容は、元ヤクザのジジイたちがオレオレ詐欺集団の若者と対決を繰り広げるという筋書きのエンターテイメント作品。近年の『アウトレイジ』シリーズでは強烈な暴力描写が話題となったが、今作はこれまでの北野映画の中でも最も笑いの要素を前面に押し出した、コミカルな一作だ。「金無し、先無し、怖いモノ無し!」というキャッチコピー通り、登場するジジイたちの行動原理は、「ノーフューチャー」なパンク魂に満ちたもの。それが痛快な物語の原動力になっている。

一方で、近年の日本においては、昭和時代など過去を賛美しノスタルジーをかき立てるような作品が娯楽映画の王道となっているのも事実。そんな中、なぜ北野武は「ノーフューチャー」なジジイたちをモチーフにした映画を撮ろうと考えたのか? 高齢化社会が本格化する中、人は老いとどう向き合っていくべきなのか。

エンターテイメントを通して見える時代の変化について、そして、そんな中で取り沙汰されるようになった「老害」という言葉について。様々な観点から、北野武監督に語ってもらった。

■単純にジジイが暴走族を組んで暴れ回ったら面白いだろうなって。警察の言うことなんて聞きやしない、「君たちには将来がある!」「将来なんてねえよ!」って(笑)。

―ヤクザを引退した老人たちの活躍を描くという今作のモチーフは、現代の日本とリンクする部分もありますが、じつは以前からあたためていたネタだそうですね。

北野:そうだね。最近は高齢化社会になって、年金の問題やらいろいろ言われるようになってきた。われわれ団塊の世代もいずれジジイばっかりになる。でも、ネタはかなり前からあったんだよ。単純にジジイが暴走族を組んで暴れ回ったら面白いだろうなって。警察だって相手が若いから説得できるんだよね。でも、ジジイの暴走族は脅しても言うことなんて聞きやしない。「君たちには将来がある!」「将来なんてねえよ!」「命を大切にしなさい」「してきたよ!」って(笑)。

―まさにそうですね(笑)。

北野:最初はそういうネタを4コマ漫画みたいな内容で書いていたの。「俺たちに明日はない」っていう、そのまんまのタイトルで(笑)。で、今の時代になって、それを元に映画を撮ろうということになった。オレオレ詐欺や、暴走族がタレントを襲う事件なんかも出てきて、ストーリーをだいぶ作り変えたんだ。ジジイが路線バスを乗っ取って、若いヤツを町中追いかけまわすっていうイメージだけが最初にあって、そこから遡って作り直した。

―物語の核の部分が最初にあったんですね。

北野:そう。でも、今は高齢者が騙されて何百万円も取られるような事件が一杯あるから、それもちゃんと絡ませようって。オレオレ詐欺の連中が、間違ってとんでもなく凶暴なジジイを引っ掛けて焦る。ジジイのほうは金を払う代わりに指を詰めようとしたり、大マジメに「俺の指じゃ足りねえのか!」とか「なんで逃げるんだ、コノヤロー!」って激怒するっていう。そういう面白さを出そうとした。

■スマホで見るような映画がジャンジャン出ているときに、「映像美」「カメラワーク」なんて言ってる場合じゃない。だったら、とにかく楽しめる作品を作ってやろうと思った。

―監督はここ数年、特に『アウトレイジ』以降はエンターテイメントに徹した映画作りをされていると思います。観客を楽しませるということを強く意識して映画を作るようになったのは?

北野:映画監督としてアートというか、自分の根源的な部分だけで撮りたい気持ちはあるんだけど、果たしてそれがちゃんと伝わったり、公開してくれるところがあるんだろうか? という気持ちもあって。ただでさえDVDやBlu-rayの時代になって、映画館からフイルムはなくなってるし、デカいスクリーンで観る人も少なくなった。それどころか今はネット配信で、スマートフォンで見るような映画がジャンジャン出てる。そんなときに「映像美が」とか「カメラワークが」だなんて、一人で骨董品屋やってる場合じゃないっていうね(笑)。だったらとにかく楽しめる、作品そのものがエンターテイメントっていうものを作ってやろうと思った。時代がそう変わっているわけだから。

―時代が変わったことを念頭に置いている。

北野:もちろん、今の時代は細分化しているからね。昔のアート系ミニシアターみたいな映画館も残っているし、そういうところで評価されるような作品はちゃんと別にある。でも、これはそこにかける映画とはまた違うからね。映画という表現自体も今まで通りのスタイルであり続ける必要はないと思う。

―一方、最近の日本では、娯楽映画の王道としてノスタルジックな作品が受けていますよね。「あの頃は良かった……」と過去を賛美するようなものも多い。

北野:ノスタルジーっていうのはウソだよね。そういう映画も観たけどさ、小道具のオモチャからして一つひとつ違う。自分はちょうど戦後に子ども時代だったから、そういうのを観るとちょっとイラついちゃうところもあって。竹ひご製の模型飛行機だって、ロウソクで竹ひごをあぶって、イチから作んなきゃいけなかったんだから。ノスタルジックに撮るのもいいけど、それは作っている人の理想だっていうこと。都会育ちの人ほど、下町に憧れたりするんだよね。でも、自分はホンモノの下町に育ったから、ああいった映画に描かれるような人物なんてどこにもいねえよ、ってことを知ってる。よそ者に親切にするなんてあり得ないし、あんなのがいたらぶん殴ってるよって(笑)。

■ニコニコ動画って、一言で端的に言い表しているコメントが面白いんだよね。ダラダラ長く書いてるのもあるけど、大抵ダメ。それは見逃さないようにしてる。

―対して『龍三と七人の子分』は、ノスタルジーとは真逆の発想で作られていると思います。オレオレ詐欺にしても、「京浜連合」という半グレ集団がIT系の会社組織になっていたり、今の時代の要素を意欲的に取り入れている。

北野:そうだね。これは完全にフィクションだから。元ヤクザのジジイが集まって暴れたらどうなる? ってだけで、リアルさは一切ない。でも、そこにリアルが少しだけ出てくるから笑っちゃうっていう。基本的にはミスマッチだから面白いんだよね。

―ミスマッチでいうと、笑える場面であえて物悲しい音楽が流れたりしますよね。

北野:笑いは違和感から生まれるからね。そういうところで「♪タンタカラッタ、チャンチャン!」なんて楽しげな音を鳴らされちゃうと、お笑いを持ち上げているようで潰しちゃう。以前、ウチの近所の商店街でお葬式をしていたことがあって、その近くのパチンコ屋が新装開店してたのよ。で、お焼香しながら後ろのほうでチンドン屋の音が聞こえてくるっていう(笑)。そういう偶然がかち合ってしまうマヌケさが、自分は大好きなんだよね。

―映画では、とてもスピード感のあるセリフの応酬が見どころの1つになっています。平均年齢72歳の大御所俳優の方々にこのテンポで演じてもらうのはかなり大変だったのではと思いますが、どうでしょうか?

北野:これはね、完全に編集なの。おじいちゃん俳優たちのセリフを録音、加工しているんだよね。尺を縮めて、声をずらして、重ねてる。すごく面白かったよ、殴り込みの場面なんて編集しながらゲラゲラ笑ってた。藤竜也さんなんてベテランで上手い役者だから、そのまま普通に演技してもらって、編集でお笑いにしちゃったの。オナラの音もたくさん入れたしね。本人が試写を観て驚いてたよ、「僕のオナラ、多すぎないですか?」って(笑)。

―映画の中では、オナラのような笑いにつながる効果音、テロップなども効果的に用いられています。こういった演出も、監督のこれまでの作品ではあまりなかったことだと思いますが。

北野:今のお笑いって、自分の後に2世代くらい大きな変化があって、ある意味細分化した、マニアックなものになっているんだよね。だから映画では徹底的に新しいネタを排除して、誰でも笑っちゃうようなものにした。オナラなんて、ギャグでいえば最低のネタだからね。舞台上でオナラをすればみんな笑うけど、それはお笑いの技術でもなんでもない。そういうことを平気でやるっていう(笑)。

―監督は「ニコニコ生放送」への出演など、新しいメディアにも積極的に関われています。そういうところから新しいテンポや間や映像の見せ方のヒントを得たりもするんですか。

北野:お笑いのセンスという意味ではあるね。ニコニコ動画のコメントって、一言で端的に言い表しているのが面白いんだよね。ダラダラ長く書いているのもあるけど、大抵ダメ。それより一言の中に圧縮できる技術を持った、短い言葉で笑っちゃうような表現が受ける。それは見逃さないようにしてる。

■この映画のジイさんたちも「俺たちに明日はない」とか言いながら、孫に小遣い貰ったりしている。そういうズレの面白さもある。

―『龍三と七人の子分』に登場するジジイたちは、みんなパンキッシュな魂の持ち主だと思うんです。それが痛快な面白さにつながっている。

北野:うん(笑)。

―Sex Pistolsなど、1970年代パンクのキーワードに「ノーフューチャー」というものがあったんですが、実際、この作品に出ているジジイたちは、文字通りに「ノーフューチャー」であるという(笑)。

北野:そうだね。でも、あの辺りのパンクを真似したヤツらが、宝くじ売り場に並んでいるのを見たことがあって、それも面白いよね。「ノーフューチャーじゃねえのかよ!?」って(笑)。この映画のジイさんたちも「俺たちに明日はない」とか言いながら、孫に小遣い貰ったりしてるからね。完全に思い通りにはいかないギャップがあって、でもギリギリ辻褄が合ってる。そういうズレの面白さも入ってると思う。

―試写後には、若い女性から「おじいちゃんヤクザたちが可愛い」という感想も集まっていたそうです。そういった「粋」なジジイになるコツは、どういうところにあると思いますか?

北野:リタイアを控えた人によく言うんだけど。「リタイアした後に何かやろう」としてもダメなんだよね。どうせ続かない。働いているうちから会社にウソをついてでも遊ばなきゃ。それでリタイアすれば楽しくなるし、困らない。だって好きなことをやるだけでいいんだもん。

■ジジイも、引き際を自分の意志で判断するようになればいい。いつまでもオムツしたまま生きていたくねえって、「もうくたばる!」って言ってもいいじゃねえか、って。

―監督は、今の日本社会と老人について、どう感じられていますか?

北野:やっぱり、あまりにも老人社会になってきてるよね。「老人を大切にしよう」ってよく言われるけど、そんなの大きなお世話なんだよ。年寄りが嫌がるのは「おじいちゃんこっちだよ、『歳』なんだから」って言われること。歳を取って可哀想だから優しく親切にしようとか、そういう紋切り型の扱いはおかしいよね。

―良い部分もありますか?

北野:老人を大切にしたいなら、礼儀を持って接することだよね。ある部分では歴史を作ってきたわけだし、尊敬するところもあるわけだから。ただ、一律に年寄りだから尊敬しようというのも、その人が本来持っている価値を認めないことになるし、単に歳を取れば価値が増えるわけでもない。骨董品になることが素晴らしいわけじゃないからね。まあ、自分もあとちょっとでジジイになるわけだけど、悪い奴になろうと思うね(笑)。もし捕まったらボケたフリすればいいんだから(笑)。

―一方で、今の社会では「老害」という言葉もよく使われています。

北野:うん。

―一般的には、自らの経験だけに頼って物事を考えたり、既得権益や権威にしがみつくタイプの人がそう言われることが多いと思います。しかし『龍三と七人の子分』のジジイたちは、まったくそういうタイプではないですよね。むしろ、何の社会的権威も持っておらず、より常識外れの行動を取っていく。監督の考える「老害」にはどういうイメージがありますか?

北野:うーん、そうだなあ……。害になるかどうかわからないけれど、間違った伝統というのは、老害だと思うけどね。

―間違った伝統というと?

北野:たとえば、歌舞伎は梨園(歌舞伎の内側社会)にいなきゃ主役になれないとか、能や狂言は一子相伝だとか。もちろん守るべき伝統があるっていうのはわかる。でも、やっぱり新しいものが出てこないと、どんどん古典になって、小さくなってしまう。歌舞伎は何度か伝統をぶっ壊そうともしたけどね。でも、若い人に何か言われて壊されるくらいなら、自分で壊しちゃったほうがいいよね。

―伝統に縛られるのではなく、上の世代からそれを打破しないといけない。

北野:人形浄瑠璃に竹本住大夫っていう人間国宝の方がいるんだけど、この方は三味線弾きに「太夫の声が出づらそうなんで、調子を落としました」って言われて、「お前なんかに私の喉を気遣われるようになったのか!」って激怒して、引退を決意したという。その気概は格好いいよね。

―引き際も含めて自分で決断する、ということですね。

北野:これからの社会は老人が増えていくからね。ジジイも自分の意志で判断するようになればいい。いつまでもオムツしたまま生きていたくねえって、「もうくたばる! 死ぬ!」って言ってもいいじゃねえか、ってね。

―組織や権威など、いわゆる後ろ盾に頼らない生き方ができるかどうかも大きいと思います。

北野:たとえば、昔の料理人なんて腕と包丁1本さえあればやっていけたわけだから、店を辞めたって別の店に行って、炒飯作って「雇わねえか?」って言える。実際にそういう話もあるんだよ。自分の知ってる店で、元の料理人がいなくなったら急に料理が不味くなった。年寄りも同じで、「もういい、こんなもん!」って辞めてから、「あの人がいないと困る」って言われるくらいでちょうどいい。若い人もそうなればいいよね。企業に入るのもいいけど、少しは職人が見直される時代が来てもいいと思うな。

(以上)

家族という十字架を抱きしめて。

『手紙』という邦画を観た。

弟想いの兄が金目当てに強盗殺人を犯してしまう。
服役中のそんな兄と主人公である弟が、文通で交流をしている。
殺人者の家族ということで何かと世間からの嫌がらせを受け、
大学進学をあきらめ、職を転々としている毎日だ。
情熱を傾けて頑張る「お笑い」の世界で登りつめるが、
兄が殺人者という事実が起因し夢半ばにして挫折する。
好きだった女性とも互いの意思を確認できないまま破局する。
彼の数少ない理解者の一人と結婚し娘を儲けるが、
その娘も仲間はずれにされてしまう。

「全部兄貴のせいだ!」

弟は絶縁の手紙を出し、殺された被害者の家族と会って許しを請う。
6年間毎月欠かさず兄から届く手紙を持ち出した被害者の息子は、
兄からの最後の手紙に「私の存在がある限り罪はなくならない」という文を読み、

「手紙は彼にとっての“般若心経”なんだ」
「もうこれで忘れよう許そうと思う」

弟もまたたった一人の肉親である兄を見捨てることができず、
長いこと面会していない兄のために
刑務所に出向いて慰安で「お笑い芸」を披露する。
弟に許された兄は手を合わせ感涙する。

家族とは自分の十字架です。
血縁は偶然ではなく魂の約束なのです。
家族を通して魂を磨き合おうと誓いあったのです。

『十字架を手放すな、逃げるな、拒絶するな!!』

イエスは十字架を決して手放さず、それから逃げもしなかった。
自分の未来に《磔刑》という侮辱と苦痛が待ち構えていることを知りながら。

作家の安部譲二さんの母は刑務所に入っている息子に言います。
「あなたがここに入ったおかげで、私はこのような世界を学ばせて頂いたんだよ」
これを聞いた安部さんはヤクザから足を洗う決心をしたそうな。

犯罪者を持つ家族の皆さん、
同じ血のつながった家族をどうか見捨てないで下さい。
罪とは何か、罰とはどんなことなのか、
真摯に考えるきっかけを与えてくれたじゃありませんか?

法を犯した罪人。
壁に仕切られ社会から隔離された牢獄。
もう消し去ることのできない罪の刻印。

僕らの中で果たして罪を糾弾する資格を持つ者がどれだけいるのかな?
あのイエスでさえも罪を定めなかったほどなのに。

“自動車”に寄せる男たちの熱い思い。

『グラン・トリノ』という映画を観た。
主演・監督はクリント・イーストウッドだ。
おもしろかったので是非レンタルで借りて観て下さい。

グラン・トリノとは、70年代に生産されたアメリカのフォード車の名前だ。
朝鮮戦争に従事した退役軍人の主人公のコワルスキーが、
20年間フォード社で働いていた時に製造したものだ。
それはそれは愛着のある車で、他の車には見向きもしない。
トヨタのセールスマンでトヨタ車に乗る彼の息子には、決していい顔をしていない。
アメリカの古き良き文化を大切にする頑固な老人がそこにはいる。

内容は観てからのお楽しみとして、
タイトルメニューにある「特典映像」を逃さず観てほしい。
そこである人が言うのは
「車は単なる移動手段ではなく、父と息子のコミュニケーションツールになるんだ」と。

息子が車をほしがる年齢になる。
「もうそんな年になったのだな」と
父は息子にお似合いの車を探し出して与えたり、
もしくは自分のお古をプレゼントしたり、
車についてあれこれと講釈する。
こうして父と息子の男同士の交流が行われる。

『自動車は息子とできる共通の話題になるのだ』

内容に触れてしまうが、
映画の主人公とその息子との交流はどうであったのか疑問が出てくる。
おそらく軍人時代に犯してしまった後ろめたさ・後悔が懺悔の日々となり、
不器用で無口な父親にしてしまったのだろう。
神父にも息子にも言えない過去の秘密が、息子との距離を隔てる。
亡き妻もそれを感じていた。

息子を持つ父たちよ、
失敗や挫折の人生だって息子は共感してくれるはずだよ。
嫌われたっていいではないか。
いつかきっと解ってくれるよ。
だってあなたの息子だろ?
大人になってみないと解らないことは確かに多い。
信じてみよう。

『男同士の魂の交流』

いいものだね。

では女同士はどうなのだろう?
教えて下さい。

「自分を信じることができないボクサーは終わりだ!!」

10回の防衛戦を果たし引退しようとするロッキーの前に、
新進気鋭の強敵クラバー・ラングが現れ、「俺と闘え」と挑発する。
トレーナーのミッキーは「奴は殺人マシーンだ」と止めさせようと必死になる。
「でなければトレーナーを辞める」と。
「俺はチャンピオンとして10回も防衛してきたんだ」と言うロッキーに対し、
「それは相手を選ぶことができたからだ」と答えるミッキー。
「つまり弱い相手を俺に対戦させたのか?」とロッキーは問い正す。
言葉を詰まらせたミッキーは「これで最後にしろ」と対戦を承諾する。

ミッキーは試合直前に心臓発作で倒れる。
いつもセコンドにいるはずのミッキーがいないからか、
結果はKOの惨敗。
控え室に戻ると、最期のミッキーに別れを告げる。
「勝ったよ」と嘘をついて。

再戦を決意するロッキーは、
前チャンピオンのアポロをトレーナーに迎え、
ロサンゼルスで練習に励む。
心のより所としていたミッキーが死んでしまった孤独感、
偽チャンピオンだったのではないかという苛立ちと傷心、
ロッキーは何もかも投げ出そうとする。

「ボクサーが自分を信じられなくなったら終わりだ!!」

そんな弱気な夫に妻エイドリアンは激励する。

「あなたは私たち家族を守ってくれた。同じようにミッキーもあなたを守っただけ」
「今度はもう誰のためでもない、何のためでもない、自分のために闘って!!」
「闘うボクサーをあきらめないで!!」と。

あの内気なエイドリアンの変貌ぶりに驚いたロッキーは
「強くなったな」とつい口にする。

「闘っている時のあなたが好きなだけよ」
(ピンチの夫を助けることができるのは、妻だけかもしれない)

『自分を信じる者だけが闘える』

あなたが自分を信じる心を持ち続けるなら、
人生という戦場から逃げ出すことはないだろう。
思う存分闘おうではないか。
疲れ切るまで。

映画 『ロッキー5』 は駄作。見なくてもいい。

シリーズ1から4まではボクシング映画として最高傑作だったのに、
なぜ5では単なる格闘映画になり下がってしまったのか…残念!!

引退したロッキーの前に一人の若者トミー・ガンが現れ、弟子になる。
トレーナーとしてのロッキーの助力により、トミーは世界チャンピオンにまでなった。
だが真のチャンピオンはロッキーだという声に激怒し、ロッキーに試合を申し込む。
取り合おうとしないロッキーに苛立ったトミーは、ロッキーの親友ポーリーを殴る。
それを見たロッキーは路上で彼と決闘し、KO勝利して終わる。

ボクシングファンの僕としてはあまりにもお粗末なシナリオだとしか思えない。

「なぜ路上で殴り合いの試合をするの?」
(それはボクシングじゃないだろ!?)

「ロッキーが煙草を吸ったよ」
(プロボクサー意識はどこへいった?)
【注:煙草はスタミナを減らす】

「前作4で父として息子に“男”の生き様を見せるためリングに上がったのに、
なぜ5では息子への関心を無くし、トミーを溺愛するの?」
(いじめられた仕返しに息子もボクシングを始めたのに)
≪父親として息子が自分と同じ職業に就くのは涙が出るほどうれしいもの≫
《でも危険なボクシングはさせたくないのも親心》

僕のこの感想を裏付けることに、映画の興行収入は最低だったそうな。
演じていたロッキーと同じく、脚本家スタローンの絶頂期はすでに終わっていたのですね。
5は本当に見なくてもいい。
がっかりするから。
(でも『ロッキー ザ・ファイナル』は見てね)

【私のコメント】

ロッキー5の出演者

トミー・ガン役のトミー・モリソンは当時世界ヘビー級チャンピオンだったらしい。
(黒人が多いヘビー級で白人がチャンピオンになる。スタローンの目に止まったのだろう)
息子役はスタローンの実子セージ・スタローン。

ちなみにスタローンは4のドラゴの妻役の女性と結婚したらしいが、後に離婚。
時間的に考えてセージはその時の子供ではないだろうね。

「人生ほど重いパンチはない」とロッキーは息子に諭す。

親の七光りで絶えずチャンピオンの父と比較されて、
あげつらいに悩む息子に父ロッキーは言う。

「世の中はいつもバラ色ではない」
「そこは辛くて厳しい所だ」
「油断してたら二度と這いあがれなくなる」
「どん底から抜け出せなくなる」
「どんなにきついパンチを食らおうと、どんなにこっぴどくブチのめされようとも、
ひたすら苦痛に耐え、前に進み続けろ」
「そうすればその先に勝利がある」
「自分の価値を信じるなら、パンチを恐れず前へ進め」
「人を指差し、自分の弱さをそいつのせいにするな」
「そんなことはひきょう者のすることだ」
「お前はひきょう者ではないだろ?」
「自分を信じなきゃ、自分の人生ではなくなる」
「この先どんなことがあっても俺はお前の親父だ」
「これからも変わらずにお前を愛し続ける」

自分の思い通りにならない世界。
それを仏教ではサハー(娑婆)と言う。
懸命に生きていても、なかなかうまくいかないことばかりでウンザリする。
そんな娑婆の世界でひたすら前へ進み、勝利をつかみ取る。
生やさしいことじゃないぜ!?
そんなことは分かっている。
誰でも己の抱いた夢がある、いやあったはずだ。
胸の中にしまいこんで結局は果たせずにいる、挑戦もせずにいる。

プロのライセンスを再発行するために赴いた委員会の重鎮にロッキーは言う。
「自ら挑戦する者の権利を止める権利は誰にもない」
さらに詰め寄り
「年を取るほど失うものも多い」
「残った俺の挑戦心まで奪わないでくれ!!」と。

過去を振り返るばかりだったロッキーの前に若い挑戦者が現れ、
眠りかけた情熱を再び燃え上がらせる。
夢を失いかけた息子に“男”の生き様を証明するために、
現実というパンチで打ちのめされてしまった周囲の仲間を励ますために、
愛妻との思い出を光り輝かせるために、
闘うボクサー、ロッキーが今、リングに上がる。
(続きは見てのお楽しみにね)

「弱い者に勝ってどうする?」と空手の師範代は言う。

邦画 『黒帯』を見ていたら、印象に残ったセリフでした。

自分が勝つということは、
相手が自分よりも弱かったということだから、
「弱い者に勝った」ということになります。

一体“勝負”とは何だろう?
“勝つ”とはどういうことなんだろう?

僕の定義するところを言わせて頂くなら、
“自己の欲望に克つこと”を〈真の勝利〉としている。
すなわち“克己心”こそが強さの証明ということだ。

自分の弱さ・ズルさ・醜さ・愚かさ・軽薄さ・自虐・高慢・欺瞞・無恥・頑迷・偏執・肉体的疾患…
それを己が背負いし「カルマ」とみなすならば、
“カルマに克つ”
これが本当の強さであろう。
本当に強い人間はカルマに勝てる。
ひとたび負けても屈伏しない。
再び立ち上がるのだ。